娘に追い越された日:親としての誇りと感謝

未分類

娘に追い越されました。

「追い越された」のは、僕が以前からずっとしたかったことを、先日、娘がいとも簡単に実行したこと。

気が付けば娘はもう20代半ば、憧れの「都会独り暮らし」を実現するためある作業所に居場所を見つけたばかりですが、そんな娘に対して完全に「追い越された」と感じるケースはそうそうありません。

それだけに、今回は「親冥利に尽きる」、といったところでしょうか。

話を本題に戻しますが、娘が先日、「お寺に行きたい」と言い出したんです。

思い立ったら何をしでかすかわからない娘、そういえば以前、いきなり坊主頭にして大騒ぎしたこともあったっけ。しかも数回。

最悪のケースを頭に描きつつ、平静を装いながら僕は娘の「次の言葉」をプルプル待ちました。

幸い考えすぎだったようで、「お寺に行きたい」=「出家」ではなく、なんと「座禅をしたい」とか。

少し脱線しますが、娘は中・高校生の時に、いわゆる「いじめ」被害者になったのですが、当時は私も事情が分からず、学校側に対策を取るよう長文メールで懇願したり、何度も学校に通いつめた記憶が蘇ります。

学校に行けない期間は市を通じてフリースクールへ通わせたりと、下の子が重度障害であることからも何かと手が回らず家庭は久しく荒れ気味に。。

これらの経験は「良い悪い」はさておき、子を知るうえでまたとない貴重な経験になったのですが、その反面、自分レベルがどう動いても娘の環境は変わらない、と妻と悲観にくれたことも。

それもそのはず、学校側はこちらへの気遣いで口を濁していましたが、実は娘にも原因があり、その後のカウンセリングで先天性の「自閉スペクトラム症(ASD)」だとわかったんです(広汎性発達障害等、障害名は複数ありましたが)。

いじめはもちろん相手が悪いものですが、相手を無意識に煽っていた娘も「いじめられる要因」を自ら作っていたのでしょう。

お子様が同じような障害を持たれている親の方はきっと理解していただけると思いますが、それからも、いえ、特にそれからが色々ありました。

障害は、本人だけでは直しようがないんですよね。

結局不登校になり、登校しても不登校理由を周りの生徒へ周知する、でも学校には色んな環境の子がいますのでこれはなかなか難しいところです。

学校側もそういう子への対応について過渡期だったこともあり、娘へのフォローが追い付かず、全方位、何かにつけてとはれ物に触るような気持ちで毎日過ごした印象です。

ただ娘も自分なりに頑張って、2年だけでしたが大学での寮生活で貴重な体験を得ることが出来(自滅して中退しましたが)、その後も、比較的世の中を知るにつれ薬も不要になり、結果、時にはうまくいきませんが、感情のコントロールもかなり出来るようになりました。

もちろん先天性の障害なので障害者手帳はこの先も手放すことはできない、と主治医から断言されてはいるのですが、そんな良い流れに乗っているさなかの今回の娘の「座禅したい」発言。

昔を思い出すと僕自身本当にやり切れなく、娘に申し訳なく、ついつい前置きが長くなってしまったのですが、今回娘が「座禅をして写経したい」、と話してくれたことは、自ら「自分と向き合う」意思がある点からも、自立へ向けての足掛かりのひとつになりそうです。

僕はいつまでも元気じゃないし、息子は重度の知的かつ身体障害者、僕たち親がいなくなれば娘は一人ぼっちになってしまいます。

願わくばそれまでにいい人と巡り合えたらいいのですが、とその旨娘には時々伝えてはいるものの、今は自分自身で精いっぱい、といったところです(汗)

話を本題に戻しますが、娘が選んだお寺は定期的に無料座禅会を開いている禅寺で、ホームページを見る限り怪しい雰囲気はなさそうです。

ということで先週末、車で約20分ほどのそのお寺に娘を送って行きました。

下の子の調子が良ければ僕も参加したかったのですが(娘は嫌と言うはずですが)、実は僕は娘と同じ年の頃、仕事の挫折をきっかけに2年ほど引きこもり、スピリチュアルにはまってしまった危ない時期がありました。

その時あろうことか、新興宗教巡りをしたことも…。

本当に危ない時期だったのですが、幸いどこにも自分の居場所を見つけることができず、結局本を読んでは座禅や瞑想、時々アーユルヴェーダ(五千年の歴史をもつインド・スリランカ発祥の伝統医療)の教室に行って瞑想を教えてもらったりしていた程度にとどまりました。

座禅については、日本における禅や曹洞宗の開祖、道元が開山した大本山「永平寺」(福井県)に行ったくらい禅にはあこがれていたのですが、なにせ全介助の息子を授かると時間と心の余裕が急激に無くなってしまい、そうこうするうちに「お寺で座禅」の願いは今の今まで夢のまま。

要するに娘ほど求めていなかったのかもしれませんが、それにしても、娘の年くらいに「したい」と思ったことが、その倍以上の年齢になっても叶えてられていない、しかも忘れさえしていたのが本当に情けない。

それゆえ私の中では「娘に先を越された」と感じてしまったというわけです。

交通の不便なところなので先の通り、車で送迎したのですが、娘いわく「カウンセリングに行くよりこっちに早く行けばよかった」。

ただお寺は長い日本の歴史において今なお続く日本人の心のよりどころであり、もちろん精神科とは比較ができません。

もちろん悪しきに当たればどちらも悲惨なのですが、多額の運営資金が必要な病院よりお寺の方がしがらみが少ないことからも、主観ですが、病院と比べてお寺の方が外れを引きにくいように感じます。

ただこれは、薬なしでなんとか頑張れる娘のような人が前提です。

ところで娘に座禅の感想を聞いたところ、「毎月参加したい」と話すほど、とても良かった様子です。

参加者は10名もおらず、その後の写経は娘一人で書いていたとのこと。

今の職場での悩み事にも住職さんがアドバイスをくれたそうで、「娘なりにいいとこ見つけたな」、なんて思います。

それ以来、毎朝起床後、座禅を組んでいるようですが、今日も「足が痛い」と笑いながら朝食を作る私に話してくれました。

なにより、娘の将来が明るいものになりますように。

コメント

タイトルとURLをコピーしました